岡田有希子さんは、1980年代に活躍し「ポスト松田聖子」と期待されたアイドルでした。しかしデビューから2年後の1986年に突然自ら命を絶ってしまうのです。
今回は岡田有希子さんの自殺とその真相、遺書に書かれていた「峰岸徹」さんの名前や、30年後に判明した「新事実」についてまとめました。
この記事の目次
岡田有希子さんのプロフィール
岡田有希子(おかだ ゆきこ)
本名:佐藤佳代(さとう かよ)
愛称:ユッコ
誕生日:1967年8月22日(享年18歳)
身長:155cm
体重:44kg、
スリーサイズ:B86cm・W58cm・H84cm。
1985年:テレビドラマ「禁じられたマリコ」初主演(峰岸徹と共演)
1986年:シングル「くちびるNetwork」でオリコンチャート初登場1位
岡田有希子さんは、愛知県一宮市に生まれ、同名古屋市熱田区で育ちました。
岡田有希子さんは成績も良好で、高校時代には名古屋市立向陽高等学校へ入学します。
その後、堀越高等学校へ編入し卒業に至ります。
そこまでの道のりは険しいもので、中学3年生の時に、「スター誕生」の地区予選に出場し、決勝への切符をつかんだのですが、芸能界入りに両親が猛反対するのです。
決勝に出場するために、ある厳しい条件が両親から突き付けられます。
・学内テストで学年1位になること
・中部統一模擬試験で学内5位以内に入ること
・第一志望の向陽高校に合格すること
無理だと言われていた、この3つの条件を、頑張り屋さんの岡田有希子さんはすべてクリアし、
決勝へと参加します。
そして、決勝では、中森明菜さんの「スローモーション」を歌い、チャンピオンとなりました。その後、所属するサンミュージックにスカウトされ、同プロダクションに所属が決まったのでした。
デビュー曲「ファースト・デイト」
1986年1月29日には、「くちびるNetwork」が発売されると、オリコンチャートで初の1位を獲得します。この曲は、当時妊娠のため休業中だった松田聖子さんの初の提供作品だったそうで、当時岡田有希子さんは、かなり感動していたそうです。
亡くなった後も、写真集が発売される
復刻版「SWEET LOVE DREAM」
岡田有希子さんは、生前4冊の写真集を発売しています。
そして、自ら命を絶ったあと、「さよなら…有希子」と題した写真集が発売されます。
- 1984年:岡田有希子special
- 1985年:岡田有希子写真集・あなたとふたりきり…
- 1985年:もっと逢いたい…有希子
- 1985年:SWEET LOVE DREAM
- Cookie1986年6月号別冊「さよなら…有希子」
そして、2002年には「SWEET LOVE DREAM」の復刻版が発売されます。
☆優也☆の
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ユッコちゃん
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岡田有希子さんの自殺までの経緯
1986年4月8日、自らあの世へ…
まず、岡田有希子さんの自殺当日の行動です。
1度目の自殺(未遂)
リストカット&ガス自殺
自殺当日、最初の自殺を図ります。
岡田有希子さんは、まだ引っ越したばかりの東京・青山の自宅マンションでリストカットをし、ガス栓をひねって自殺を図りました。
しかし、近隣住民の通報により発見され119番されて、北青山の病院に運ばれたのです。
病院で手当てを受けるも…
その後、連絡を受けサンミュージックの元専務の福田時雄さんが、岡田有希子さんが搬送された北青山病院に駆けつけます。
駆けつけるとカーテンの奥で手首に包帯を巻かれた有希子が泣いていた。ワーッと声を出して泣くのではなく、シクシクという感じで。幸いためらい傷だけだったので、医者に入院の必要はないと告げられ、私は有希子を連れてタクシーに乗りました。
『どこに行きたい? 名古屋の実家へ戻るか? 自宅マンションへ帰るか? 事務所に行く?』と尋ねると、事務所がいいと言うので、四谷へ向かったのです」
「有希子を6階の社長室に連れていき、私と付き人の女の子が寄り添いました。しばらくすると外にいた相澤から電話が入ったので、私が隣室に移った。その隙に彼女はスウッといなくなってしまったのです」
岡田有希子さんは、この状況にもあるように、サンミュージックの元専務の福田時雄さんたちが病院に駆けつけると、傷の具合もたいしたことなかったので、本人の希望もあり、四谷にある事務所へ連れて帰りました。
その後、社長室にて付き人を含む3人で話をしていたのですが、福田専務が相澤社長からの電話のため席を外した隙に、岡田有希子さんは付き人の目を盗み、屋上へ行ったのです。
そして…
2度目の自殺(投身自殺)
電話が終わり戻ると、なにか嫌な胸騒ぎがしたという福田専務。
階段の方へ行くと、階段にスリッパが揃えて置かれていたそうです。
こちらが、当日午後に放送されたワイドショーのニュースです。
いまは亡き、梨本リポーターが、当時の緊迫した現場の様子を押さえています。
「ユッコ・シンドローム」で世間に衝撃が走る
後追い自殺が多発
岡田有希子さんの突然のお別れに、世間に衝撃が走り、少年少女の「ユッコ・シンドローム」と呼ばれた、後追い自殺が相次いだのです。
この悲しい負の連鎖には、国会でも議論されるほど大きな問題に発展したのです。
岡田さんの死は、「ユッコ・シンドローム」という社会現象が引き起こした。16歳の少女が「岡田有希子のようになりたい」と自ら命を絶ったのをはじめ、1週間で8人が自殺。さらに、21歳の浪人生が同じ現場で飛び降り自殺をするなど、1カ月で後追い自殺したファンは30人以上。ショッキングな出来事としても記憶されることとなった。
4/8と言うと、歌手の岡田有希子さんの命日でもあるんだよね。<RT
— 海月@MIK-104号 (@marchmarinemoon) 2017年4月7日
後追いと思われる自殺が連発し、「ユッコ・シンドローム」なる言葉まで出来た、「群発自殺」という概念を広く知らしめた痛ましい事件。あんな出来事はもう起きてほしくない。
昔、岡田有希子さんが自殺した時後追い自殺が流行りユッコシンドロームや有希子症候群とも言われ多くの若者が自殺に走った 今回の件で後追い自殺なんてそれは絶対あってはならない!そんなことしてもエゴやし彼女はそれを望んでない!彼女の為にも生きて応援してあげることがご供養につながる
— うどん亭HIRO ~カレーうどん編~ (@hiro53549) 2017年2月8日
岡田有希子さんの自殺の遺書には峰岸徹さんの名前が?
遺書には峰岸徹さんの名前
遺書に書かれていた名前は…
岡田有希子さんが自殺したあと、岡田有希子さんの青山のマンションから「遺書」が見つかったそうです。
1度目の自殺(ガス自殺)の後、警察が遺書を発見し、その翌日に岡田有希子さんの両親に手渡しされたそうです。
遺書には、「俳優の峰岸徹さんにふられた…憧れていたのに、最近冷たくされて悲しい…勝手なことをしてごめんなさい…」と岡田有希子さんが憧れていた俳優の峰岸徹さんの名前が記されていたと報じられました。
「禁じられたマリコ」で共演
岡田有希子さんと峰岸徹さんは、自殺する前の年から始まった連続テレビドラマ「禁じられたマリコ」で共演をしていました。
当時、峰岸徹さんは42歳だったので、岡田有希子さんとは24歳も差がありました。
峰岸徹さんは1983年に前妻・藍とも子さんと離婚していました。しかし、この当時すでに別の婚約者がいたと言われたりもしていました。
訃報を聞き、峰岸徹さんは…
峰岸さんは、岡田の自殺の真相を知って「正直、ものすごくショックです。僕は兄貴のつもりでいたんですが、彼女はそれ以上のプラスアルファがあったのかもしれない。それが愛だったら、責任を感じます」とコメントした。
このころ、連日峰岸徹さんに報道が相次ぎ、これには岡田有希子さんの母親も峰岸徹さんにたいし、「申し訳ない」と話していたそうです。
※峰岸徹さんは2008年、肺がんにより亡くなっています(享年65歳でした)
遺書の名前は神田正輝さんだったとの見解も?
実は神田正輝さんだった?
岡田有希子さんの自殺騒動から、数か月後に岡田有希子さんが想いを寄せていたのは、実は峰岸徹さんではなく、神田正輝さんだったと報じられたのです!
岡田有希子さんと神田正輝さんは、事務所の先輩でもあった松田聖子さんを通じて知り合ったのですが、その後関係を結び、神田正輝さんの子どもを身ごもっているとまで噂が流れました。
しかし…
松田聖子さんと電撃結婚!しかも…
松田聖子さんが、郷ひろみさんと破局報道されたその1か月後に、なんと松田聖子さんは神田正輝さんは、電撃結婚発表したのです!
しかも、それだけではなく、松田聖子さんは神田正輝さんの子どもを妊娠していることを発表しました。その日が岡田有希子さんが自殺する前日(1986年4月7日)のことだったので、この一連の流れから、神田正輝さんが、自分ではなく、松田聖子さんを選んだことに、かなりショックを受け岡田有希子さんは自殺してしまった…というものでした。
また、ネットの噂では石原プロが、結婚したばかりの神田正輝さんの悪行をかばうために、峰岸徹さんとの噂を仕立てあげたというのです。そして峰岸徹さんはその見返りとして、仕事をもらっていた、などとさまざまな憶測を呼んでいるようでした。
遺書の名前は舘ひろしだった?
舘ひろしさんとも噂が?
舘ひろしさんが遺書に書かれていた相手だったと噂されることもありましたが、その裏にあったのは、岡田有希子さんは、実は舘ひろしさんのファンだったそうなんです!そこから噂が誇大化していき、遺書の相手に発展してしまったのではないでしょうか…
岡田有希子さんと舘ひろしさんは、同じ名古屋出身で、舘ひろしさんが出演したドラマ「西部警察」のファンだったと言います
「ザ・トップテン」で共演
岡田有希子さんは「ザ・トップテン」という番組で舘ひろしさんに出会ったそうです。
また、岡田有希子さんの「妊娠説」は噂になった峰岸徹さんや神田正輝さんともありますが、舘ひろしさんの子供を妊娠しているともありました。
岡田有希子が妊娠三ヶ月と言うことは元々知っていた…じゃあ舘ひろし説はどういう事だろうか…よく分からない…。
— Dr.逆瀬 (@3Ks_2) 2013年5月29日
当時、石原軍団には「黒い噂」が流れていたようで、
・岡田有希子さんは舘ひろしさんとの子供を妊娠させられ自殺してしまった
・舘ひろしだけではなく石原軍団のメンバーに何度も妊娠させられ中絶している
このような内容が、当時業界内ではかなり話題となっていたそうです!
岡田有希子さんの自殺の新事実が公開される
死の新事実についてTV放送
あれから32年が経過…
1986年に自ら命を落としてしまった岡田有希子さん。現在2018年、あれから32年もの月日が経過しています。
そんななか、没後30年目の2016年にTBSテレビの「爆報!THEフライデー」で岡田有希子さんの死の新事実について放送されました。
福田元専務は当時のことをこのように語っています。
番組のインタビューに応じた福田元専務は、岡田さんの1回目の自殺未遂は「(当時関係を噂された)男性への一途な思いから」の行動であり、2回目の自殺は「(自殺未遂で)大変なことをしてしまったから、もう生きてはいけないと思い詰めたのではないか。皆に迷惑かけたという自責の念」などと語り、午前中の自殺未遂が正午過ぎの飛び降り自殺につながったとの見方を示した。
この番組に出演していた田原俊彦さんはこの当時を振り返り、このようにコメントを残しています。
1980年デビューの田原は、84年デビューで時同じくアイドルとして活動した岡田さんについて、「ホントにすてきな女の子だった」と振り返った。
「やっぱりあの当時の特別な芸能界はまだ、隔離された社会だったから、18歳の女の子には悩み事を打ち明ける場面はなかったと思うし、なかなか同業者には言えなかったと思う」と慮った。
「原因は謎なところがあるけど、ホントにすてきな女の子だったので、頑張って今いたらどうだったのかと思います」と神妙な面持ちで語っていた。
最初の自殺未遂は失恋からで、2回目の投身自殺は”自責の念”からではないかと言われています。しかし、本当の「真実」というものは、亡くなった本人しか分かりません。
また、岡田有希子さんが亡くなって30年が経過した2016年にある新事実が発覚するのです!
30年経って発覚した資料紛失事件の真相
岡田有希子さんの資料が何者かによって持ち出しされていた?
「爆報!THEフライデー」では、さらに新事実、岡田有希子さんが亡くなった後に、サンミュージックから何者かによって岡田有希子さんの資料が持ち出されるという事件が起きていたというのです。しかもその持ち出した人物も特定できているそうで…
その特定されている人物とは、サンミュージック元社員でオーストラリア出身の「リチャード」さんでした!リチャードさんは、1989年にサンミュージックに入社し、2年間勤めたあと退社します。
リチャードさんが退社したのと同時に岡田有希子さんの資料も消えていたそうです。
【昨年の今日】り、リチャード!?(驚) pic.twitter.com/O9uV7pu4Lwhttps://t.co/CgdGyHdLAg#リチャード#どちゃり#岡田有希子
— 요시다유키히로 ЁсидаЮкихиро (@yshdykhr) 2017年12月3日
実は、リチャードさんは岡田有希子さんのファンだったそうです。まだリチャードさんがオーストラリアに居る頃、日本人留学生の影響によりファンになり、リチャードさんも夢中になったそうです。その熱狂的ファンぶりは日本の雑誌にも紹介されるほどだったそうです!
しかし…そんななか、岡田有希子さんの突然の自殺報道をリチャードさんが大学在学中に耳にし、大きなショックを受けたそうです。
YOUは何しに日本への録画見てたら「岡田有希子さんの命日のために来たYOU」で、爆報フライデーで「サンミュージックから岡田有希子さんの資料を持ち去って保管している外国人」として紹介されたリチャードさん出てきてビビった。 pic.twitter.com/WDg4cgbCDn
— 東北在住 (@sleeve_pear) 2016年12月14日
いてもたってもいられなくなたリチャードさんは、自身の保険を解約し全財産をはたいて来日します。そして上智大学に通いながら岡田有希子さんのことを調べ、当時サンミュージック所属だった「早見優」さんが大学のクラスメイトにいたため、紹介してもらいサンミュージックに入社します。
当時は、松田聖子さんの全米進出に関わる翻訳をしていたそうです。
そんな矢先、岡田有希子さんの資料が倉庫の奥に押し込まれる瞬間をリチャードさんは目撃してしまったそうで、いたたまれなくなったリチャードは、無断で資料を持ち去り退職したとのことです。
岡田有希子かぁ。
— よっち (@yotti725) 2016年12月2日
このリチャードさんは一途だわなぁ。
コンテナ借りてまでグッズ保管してるなんてなぁ
サンミュージック勤務時に岡田有希子の資料を大量に持ち出して保管してたリチャード、完全に窃盗なのに、福田さん「岡田有希子を思うがあまりの行動」と不問にしちゃうの、故・相澤会長と同じで優しすぎるわw
— Rise☆Up (@risestarup) 2016年12月2日
リチャードはいま現在も日本に済み、岡田有希子さんの資料をコンテナに預け大切に保管しているとのことです。
普通であれば「窃盗罪」にあたるこの行為ですが、この事実を知り、サンミュージック側は、「岡田有希子さんを愛するがゆえの行動」ということで問題にはしなかったそうです。
岡田有希子さんの自殺の新事実についてのまとめ
いかがでしたでしょうか?
岡田有希子さんについての記事をまとめると…
・自殺した1つめの理由は「失恋」から
・自殺した2つめの理由は「自責の念」からだと伝えられた
・遺書に書かれていた名前への噂は3名だった
・峰岸徹さん・神田正輝さん・舘ひろしさんなどが挙がっていた
・この3人とは「妊娠説」も囁かれていた
・結局の真実は本人にしか分からないこと
・元サンミュージックの写真が岡田有希子さんの資料を持ち出していた
岡田有希子さんの突然の死から、今年(2018年)で32年の月日が経過しました。
岡田有希子さんの命日には、いまでも数多くの人々が献花しに訪れれているそうです。
遠方からお越しの方ご苦労様でした。仕事帰りで今、大木戸ビル前を訪れている方、お疲れさまでした。献花の花をお墓まで運んだ方々、いつもご苦労様です。
— Open Your Heart (@YAMAZAKI1984) 2016年4月8日
岡田有希子さん 没後30年 pic.twitter.com/xPdbFGuxRF