雅子様は皇太子徳仁親王の妃で、父親が元外務官のエリート家系・小和田家に生まれ、自身もハーバード大学出身で外務省勤務を経て天皇家に入られました。
2004年に適応障害の病気があることが分かり世間を騒がせましたが、若い頃から現在に至るまでを詳しく総まとめしましたのでご紹介します。
雅子様についてのプロフィール・生い立ち・経歴
両親がエリートの名家に生まれた雅子様
雅子様の父親が元外務官だと伝えましたが、母親もヨーロッパ最大のフランスの航空会社「エールフランス」の極東支配人秘書官を務めており、雅子様が誕生してからは世田谷区桜上水にある外務省官舎に住んでいました。
雅子様についての詳しいプロフィールはこちら。
旧姓: 小和田 雅子(おわだ まさこ)
続柄: 小和田恆第一女子
全名: 雅子
身位: 皇太子妃・親王妃(皇太親王妃)
敬称: 殿下
お印: ハマナス
生年月日: 1963年12月9日
出身地: 東京都港区虎ノ門
配偶者: 皇太子徳仁親王
子女: 敬宮愛子内親王
父親: 小和田恆
母親: 小和田優美子
役職: 日本赤十字社名誉副総裁
引用:Wikipedia – 皇太子徳仁親王妃雅子
雅子様についての生い立ち・家系図・略歴
海軍大将・南部藩士を先祖に持つ小和田家
雅子様が皇室に入られた時、世間では実家である小和田家の家系図が公開され、先祖には海軍大将がいる立派な家系だと報じられていました。
当時、雅子様の人気は凄まじいものがあり、地元の実家に繋がる道には「プリンセス通り」と名付けられるなど”超才女で美人”の雅子様は世間に持ち上げられていました。
その一端として朝日新聞が報じた家系図では海軍大将が先祖にいる優秀な家系として紹介され、完璧な経歴を持つ皇族にふさわしい女性だという印象付けがされていました。
しかし、江戸時代以降に遡ると南部藩士や足軽がいるという情報もあり、昔からエリート家系だった可能性は低いようです。
雅子様、幼少期から海外生活が続く
父親・小和田恆(ひさし)について海外で生活
雅子様の父親である小和田恆さんが外務官であったことから在ソ連大使館一等書記官に就任し、1歳を過ぎた頃からソビエト連邦やスイス連邦などで生活をしていました。
雅子様はソビエト連邦の保育園に通い、始めは聞きなれないロシア語に戸惑い泣いていたこともあるそうですが、すぐにロシア語を身につけて後に生まれた妹たちにも教えたりしていたようです。
雅子様は再び父親の仕事の都合で米ニューヨーク・ブロンクスに移住して約3年間を過ごして英語も身に付け、その後父親が外務大臣秘書官に就任したため日本に帰国しました。
雅子様、学生時代から”超”優秀だった
世界トップクラスの学力を持つ雅子様
雅子様は帰国後は目黒区立原町小学校に1年生から編入して学生生活をスタートさせましたが、5ヶ月で新宿区立富久小学校に転校しました。
雅子様は有名芸能人・著名人を輩出している名門校である田園調布雙葉中学校・高校に進学しましたが、高校時代に父親が国連政府代表部一等書記官に就任したため再び渡米してマサチューセッツ州ボストンに移住しました。
雅子様はマサチューセッツ州立ベルモント・ハイスクールに編入し、優秀な成績を残していたことからアメリカ政府が米国全体の上位5%の生徒に贈る「ナショナル・オーナー・ソサイティー」を受賞しました。
その他にもドイツ語科での成績優秀者として、ドイツ政府から「ドイツ総領事賞」と「ゲーテ・インスティトゥート賞」を受賞するなど、雅子様は地元紙でも度々紹介される優秀な学生でした。
高校を卒業した雅子様はハーバード大学経済学部に進学し、父親が同時期に在ソ連特命全権公使に就任したため雅子様を残して一家はロシアに移住し、雅子様は卒業までドイツ語、フランス語など語学の勉強に励みました。
雅子様は海外生活が長いように思えますが、若干日本の教育を受けた期間の方が長いようです。
雅子様、若い頃が美人と話題に
まさに皇太子妃という気品のある美貌
雅子様は現在ももちろん美人には変わりありませんが、適応障害を患ってからはどこか表情が優れないことが多く、せっかくの美貌も色あせた感がありましたが、やはり若い頃は気品に溢れた美貌が注目されていました。
外務省時代の若い頃の雅子様
ちょっとわかりづらいですが雅子様が外務省入省時に撮影された写真のようですが、遠目でも人目を引く美人だとわかります。
雅子様23歳の若い頃の誕生日会
雅子様が23歳の頃の誕生日パーティーの写真のようです。こうして見ると親近感が湧きますが、一緒に写っている男性らも高学歴なのでしょう。
外務省時代の若い頃の雅子様の貴重な流し目
雅子様が外務省で働いていた頃にテレビに映った時の写真のようですが、現在では見られないような貴重な髪を扱いながらの流し目をしています。
雅子様の外務省時代の若い頃の写真
雅子様が当時トヨタのカローラⅡに乗っていたことから爆発的に売れたそうです。
雅子様、皇太子徳仁親王の妃となる
1993年に日本中を沸かせた雅子様の皇室入り
雅子様は1986年10月18日に開かれた当時のスペイン国王・カルロス1世の長女、エレナ王女の歓迎レセプションの際に初めて徳仁親王と出会いました。
雅子様と徳仁親王は5年越しの2度の再開を経て、世間でも話題となった「鴨場でのデート」の後に徳仁親王が雅子様に求婚して、1993年1月19日に皇室会議にて徳仁親王妃に内定しました。
婚約が決まると雅子様は1993年2月に外務省を退職し、1993年6月9日に徳仁親王と結婚されました。
そして2001年12月1日には雅子様が37歳の時にご息女・愛子様が生まれています。
雅子様の病気・適応障害とは
雅子様はなぜ”適応障害”の病気になった
雅子様は2004年7月30日に宮内庁より適応障害の病気を患っていることが発表され世間に衝撃を与えましたが、なぜ雅子様は精神障害を患ってしまったのか総まとめしましたのでご紹介しましょう。
適応障害とは一般的にはあまり聞く機会の少ない病気ですが、厚生労働省の専門サイトでは以下のように説明されています。
適応障害は、ある特定の状況や出来事が、その人にとってとてもつらく耐えがたく感じられ、そのために気分や行動面に症状が現れるものです。たとえば憂うつな気分や不安感が強くなるため、涙もろくなったり、過剰に心配したり、神経が過敏になったりします。また、無断欠席や無謀な運転、喧嘩、物を壊すなどの行動面の症状がみられることもあります。
引用:厚生労働省 – 適応障害
この病気の特徴を見る限りでは、雅子様が皇室に入ったことで世間の注目の的となり、国の代表として公務に当たることに過剰なプレッシャーやストレスを感じていたことが推察されます。
適応障害とうつ病と区別については、前者はストレスを与える環境から離れれば症状が次第に緩和するのに対し、うつ病はストレスの有無に関わらず症状が収まらない病気となります。
雅子様はやはり皇室に入ったことが”つらく耐え難い”ことだったのでしょうか?
雅子様が適応障害を克服しようと努力してきた姿は度々報じられてきたためご存知の人も多いと思います。
雅子様はなぜ適応障害の病気になった?
2000年頃から適応障害の兆候が見られ始めた雅子様
雅子様はご結婚されて徳仁親王妃となってからおよそ7年後の2000年あたりから公務を欠席するなど適応障害の兆候が見られ始めています。
このことから2000年直前頃に雅子様の精神的に何か大きなストレスがかかったことが伺えますが、もちろん公務のプレッシャーとストレスはあったと思われるものの最大の要因は流産をしたことでしょう。
雅子様は1999年12月上旬に公務でベルギーを訪問しましたが、同月10日には朝日新聞を始めマスコミが雅子様の妊娠を一斉に報じて世間の注目を集めていました。
しかし、雅子様は同月30日に流産したことが伝えられ、後継ぎの出産が期待されていたことから世間を大きく落胆させることになってしまいました。
雅子様は2000年2月には公務に戻られましたが、ご懐妊が朝日新聞を始めマスコミが早期から騒ぎ立てたことが流産に影響したとも批判の声が挙がっていましたが、精神的に過大なストレスを与えたことは間違いないでしょう。
しかし、雅子様が2001年5月15日に再びご懐妊したことが宮内庁から発表され、同年12月1日に第一子となる敬宮愛子内親王(愛子様)が誕生されました。
雅子様は皇族男子の出産が大きく期待されていた
当時は皇族男子が40年近く誕生していなかった
近年、女系天皇について論議されることが増えて世間的にも皇族に後継の直系男子がいないことは認知されていると思いますが、雅子様は女児の愛子様を出産したことで少なからず心無い人間から批判の的に晒されたことでしょう。
当時は、1965年に秋篠宮様が生まれてから40年近く皇族男子が生まれていなかったことから宮内庁は焦りを見せており、2011年12月11日の当時の湯浅利夫宮内庁長官の発言に繋がりました。
「秋篠宮さまのお考えはあると思うが、皇室の将来を考えると3人目を強く希望したい」
第2子を授からぬ雅子さまに期待はできないから、紀子さまに第3子、そして男子皇族、お世継ぎの誕生に期待を寄せた内容と受けとめられる発言に、雅子さまは大きな衝撃を受けられたに違いない。
雅子様は愛子様の出産以降はご懐妊することが無かったため、湯浅利夫宮内庁長官のこの発言は心に深く刺さったことでしょう。
現皇太子である浩宮親王が2019年に天皇に即位することになれば、第一皇位継承者は秋篠宮文仁親王ということになりますが、現在の皇室典範に照らすと「皇太子」ではなく「皇太弟」となるそうです。
それは秋篠宮文仁親王の長男である悠仁親王も同様で、現今上天皇の甥にあたるため「皇太孫」ではなく「皇太子」にはなれないということです。
そのため、愛子様を皇太子に据えて第一皇位継承者とし、「女系天皇・女帝」を認める皇室典範の改正が論議されていますが、こうしたプレッシャーが愛子様の不登校問題を引き起こし、引いては母たる雅子様の心労になっていることは大いにあるでしょう。
雅子さまの適応障害の原因。あくまで憶測に過ぎませんが。
— Epica (@amnu_sj) 2018年8月9日
海外に行かせてもらえなかったことではなく、せっかく愛子さまがお生まれになったのに、その後も執拗に「男子を作れ」と迫られ、愛娘・愛子さまの人としての尊厳を否定されたからではないでしょうか。ここまで書いて涙が出てきた… https://t.co/Y0YdoXthuQ
皇太子の「人格否定発言」と雅子様の適応障害発表
皇太子徳仁親王が起こした「浩宮の乱」
2004年5月10日に皇太子徳仁親王は欧州歴訪前の記者会見において雅子様の適応障害に繋がったであろう問題について言及して社会を騒然とさせ、これが「人格否定発言」「浩宮の乱」と呼ばれました。
これは海外での生活が長く外交官としてのキャリアがある”国際派”の雅子様と、伝統を重んじる宮内庁との間で軋轢があったことを伺わせた皇太子徳仁親王による発言でした。
- 「今回の訪問が雅子にとっても貴重な機会だったのですが、それが失われ残念に思います。私も出発に際し、後ろ髪を引かれる思いです」
- 「ぜひ2人でと考えておりましたが、健康回復が十分でなく、医師とも相談したうえで単独となりました。雅子も心底残念に思っています」
「外交官の仕事を断念して皇室に入り、国際親善が皇太子妃の大切な役目と思いながらも、外国訪問がなかなか許されなかったことに大変苦労していました。雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」
「細かいことは控えたい。なかなか外国訪問ができなかったことを、雅子も私もとても悩んだということをお伝えしようと思います。」
この皇太子徳仁親王の言葉の中にあるように、雅子様は結婚に際して外交官としてのキャリアがあることから「皇室外交の担い手になる」という使命を持って皇室に入っていました。
しかし、いざ皇室に入ってみると、”あまりに頭の良すぎる高キャリア”の雅子様は、宮内庁から世継ぎの出産ばかりを期待され、皇室外交としての期待はかけられていませんでした。
雅子様は外交の場とは対局的な皇室祭祀に参加しないことが多く、こうしたことが雅子様と宮内庁との間で軋轢を生み、上記の皇太子徳仁親王の言葉につながったようです。
そして、同年6月に雅子様は医師から適応障害の診断を受けて、その後美智子様の勧めもあり小和田家の別荘で療養に入ったことが宮内庁から発表されましたが、当初2週間と言われていた療養期間は1ヶ月に延長されました。
「嫁がれた女性皇族が、実家の別荘でご静養というのは、皇室の慣例からすれば、極めて異例のことでした。それを後押しされたのは、美智子さまでした。1963年、第2子を流産されたあと、美智子さまも軽井沢に転地療養なさったことがありましたから、雅子さまが静かな場所で心の平穏を取り戻すことを願われたのだと思います」(前出・宮内庁関係者)
雅子様、適応障害の復調の兆しを見せる
2013年に10年4ヶ月ぶりの海外訪問
雅子様は2013年4月のオランダでの新国王即位式に実に10年4ヶ月ぶりに皇太子徳仁親王と出席して適応障害復調の兆しを見せていました。
オランダは父親の小和田恒さんが仕事の赴任先として暮らした場所であり、2006年8月17日から31日までオランダ王室のベアトリクス女王の好意により療養旅行をした場所でもありました。
そのため、雅子様は心理的ストレスをあまり感じることなくリラックスして公務に参加できたのかもしれません。
オランダ訪問から2年後となる2015年7月にはトンガを訪れるなど、雅子様は次第に外交の場に顔を出すようになっていきました。
また、皇太子徳仁親王も雅子様の適応障害回復の兆しについてコメントを出したことがありました。
「雅子は治療を続けるなかで、体調に気を付けながら公私にわたってできる限りの務めを果たそうと努力を続けてきております」
皇太子さまは雅子さまについて、去年のトンガ訪問や12年ぶりの園遊会出席などに触れ、「活動の幅を一歩一歩広げられてきている」と述べられました。
雅子様は現在までに適応障害を克服した?
「週刊新潮」2018年7月5日号で報じられた現在の雅子様の様子
週刊誌「週刊新潮」の2018年7月5日号で雅子様がぎっくり腰を患ったことや適応障害が治らない理由などが報じられまして注目を集めていました。
2018年6月22日に行われた宮内庁東宮職の小田野展丈東宮大夫による定例会見では、雅子様が「腰椎ねんざ(ぎっくり腰)」を患っていることを発表しました。
雅子様が腰の痛みを訴えたのは6月17日に御所で行われた盛大な内宴の後のようで、5月の滋賀県での公務やご結婚25周年の行事でのストレスが原因の可能性があるとされていたようです。
そして、「週刊新潮」で報じられた中には、宮内庁関係者が「数年前から生活スタイルが崩壊し、雅子様が昼夜逆転生活になっている」ことを明かし、それは現在までに改善されていないということです。
ぎっくり腰は物理的な要因以外にもストレスや崩れた生活習慣が引き起こすこともあり、こうした雅子様の生活スタイルがぎっくり腰を引き起こしたと見ているようです。
そして、同時にそうした生活スタイルの崩壊は適応障害が引き起こしているという悪循環が生まれてしまっているようです。
恐らく、表に伝えられている以外にも雅子様のストレスの要因は色々とあるのかもしれませんが、適応障害が現在までに治らない大きな原因は宮内庁にあると言えるかもしれません。
医師団から病気の発表が無いのは何故でしょうね。
— 民草☆🌟元気玉ありがとう (@redistt81941) 2018年10月3日
適応障害は治るそうですし、15年も治らないのは明らかに適応障害以外の病気だと思うのですが…。
来年のお誕生日にも皇太子殿下は「雅子はだいぶ回復しましたが、まだ体調の波が…」と仰るのでしょうか。
おはようございます🌞
— ママの子供@パニック障害に負けない (@gannen1118) 2018年10月3日
最近発作ばかり💦
行動療法もしているけど行動範囲が狭いんじゃーー‼️
こんなんなら、無理な減薬やめて、一度増やして、行動範囲広げた方がいいわーー‼️と思って自己判断で0.75mmを1mmにちょっと増
雅子さまが15年の適応障害がほぼ回復のニュースに喜び💖
ゆるよろです💖
皇太子妃・雅子様について総まとめすると・・・
1993年に皇室に入り、公務に当たる中で適応障害を発症してしまった雅子様の現在までについて総まとめしてきました。
・雅子様は後継男子の出産が期待されたが女子であり、以降世継ぎは生んでいない
・外交キャリアを活かせないこと、後継男子を埋めなかったことで宮内庁と軋轢を生んだ
・雅子様は現在までに適応障害の復調の兆しはあるが完全には改善していない
雅子様は年を重ねられたことでストレスを上手く処理できるようになって適応障害を克服しつつあるのかもしれませんが、ご年齢から更年期障害も起きてもおかしくないため、体調不良による公務欠席はまだしばらく続くかもしれませんね。